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本のこと 本のある場所のこと

       私がお世話になった大切な本のこと 本がある場所のことを書きました。              ここに来てくれた方の今のこと 先のことが考えやすくなればとてもうれしいです。       

深い河  遠藤周作

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10代の頃1人でインドへ行った。

それを話すと、さも旅慣れているように思われがちだけど

私は海外旅行の経験がほとんどない。

高校生の頃、修学旅行で行ったシンガポール

ついこないだ韓国のアイドルが好きな友達に連れてってもらった韓国、

そしてインドだ。

 

きっかけは旅学という雑誌で見た1枚の写真。

インドの聖地と言われるバラナシの町並みとガンジス川が映っていた。

その日その雑誌を買って帰り、1ヶ月後にはデリー行きの飛行機に乗っていた。

 

当時はその写真の何がそんなに良かったの説明できなかったけど

今考えるとその色合いが気に入ったのだと思う。

ガンジス川の茶色か灰色か何とも言いがたい水か何かわからないものの色、

それと対照的にパキっとしたオレンジや青や緑のカラフルな、

健康的に古びた建物が並ぶ町並み。

それが見たかった。

インドに行きたかったというよりはバラナシの色が見たかったのだ。

 

だから私はデリーについてからも一切観光をせず、バラナシにしか行っていない。

あの有名なタージマハルも見なかった。

 

インドに行ったら人生観が変わる。

巷でよく言われているように私もインドでは色んな経験をした。

カメラをなくしたり、お腹を壊したり。。なはずなのだが

時間が経つにつれて、あの時起きた全部の出来事の記憶と

その時の自分の気持ちが、やっぱり薄まってきた。

私の人生の中でも絶対的に濃かったはずの時間。

それでも他の日常と同じように薄まってきた。

 

そんな時に深い河を読んだ。

そして薄まりながらもはっきりと残っている記憶があることに気がついた。

 

それはバラナシで見かけたおじいさんのこと。 

 

私は同じゲストハウスに2週間泊まっていた。

ガンジス川からゲストハウスまで続く路地を毎日歩いた。

その路地の入り口、ちょうどガンジス川が見える場所に

毎日座っていたおじいさんがいた。

 

ほとんど裸のような格好で、川の水が少し流れている湿った溝に足をつけて

錆びた金色みたいなコインを足で踏んでいた。

上半身だけ日の光に当てられて毎日同じポーズで座ってガンジス川の方を見ていた。

そのおじいさんの前を通り私は毎日歩いて川まで向かった。

 

インドの空港についてからそんな風景にはたくさん出会ったし、

というよりそんな風景ばかりのはずだったのにそのおじいさんだけがなぜか残った。

 

ゲストハウスの人に夜は危ないから外にでないほうがいいと言われ

暗くなるまでにはいつも部屋に戻っていたのだが、

一度だけ夜に1人でその路地を通った。

最終日にメインガートでお祈りがあると聞いたから。

 

その時もおじいさんはそこにいて、

同じ姿勢で座っていたのだけど、ただおじいさんの上半身に光が当たっていなくて

上半身も下半身も真っ暗だったから怖かった。

おじいさんが怖かったのか、その路地が怖かったのか何なのかその時は

よくわからなかったけど、怖いと思ってることがいけないような気がして

なんか自分がその場に居ることがいけないような気がして足早に通り過ぎた。

 

小さい頃眠れないとき、みんなが羊の数を数える代わりに

自分の友達の家の夜ご飯の風景を想像しようとして

全く想像できないのを繰り返して眠くなってきて、いつのまにか眠りについていた。

私は私以外の人の時間が同じように進んでいることが全然想像できなかった。

 

大人になってからはそんなことしていないし

すっかり忘れていたけど、そのおじいさんを見てそのことが頭に浮かんだ。

私はこうやってインドまで来て、色んなものを見て、味わって

これからもこうやって生きて行くことが当たり前で普通だと思っていた。

それが生きるってことだと。

 

そうじゃない「生きる」を見つけていたのがあの路地だったのかもしれない。 

だから怖かった。

 

インドのことも宗教のことも祈りのこともカーストのことも、

そのおじいさんのことも私は全く何も知らない、何もわからない。

生きることをインドの人がどう考えているのか

そもそも自分とそのおじいさんの生を比べるというか考えることすら

間違ってるんじゃないかとも思う。

 

物語にたびたび登場する「輪廻転生」という言葉。

生まれかわることを信じて今を生きている人がインドにはいる。

 

私は今、今だけを自分に与えられたものとして生きている。

どちらの生も確実に同じ時間で同じように存在している。

 確かに私とそのおじいさんは同じ時間を過ごしていて

同じように生きていた。

 

それを認めることも、見過ごすことも今の私は完璧にできていないし

これから先もできるかわからない。

けれど確かに自分で味わった。

 

あのとき何も知らないままインドに行ったから、

「バラナシの色」以外のものをきちんと自分で味わったから、

今この作品に出会える時期になったのかなと思う。

考えることを与えてもらえたのかなと思う。

 

私は生きてる限りは

自分が感覚的に惹かれたもの、心にひっかかったものを

考えて、確かめて過ごしていきたいなと思う。

それが私の「生きる」だと思うから。

 

深い河はそれを教えてくれた。